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藤原秀衡

世界遺産平泉を巡る  無量光院跡

金鶏山、毛越寺、観自在王院跡と来て次は無量光院跡です。

無量光院跡は奥州藤原氏三代目秀衡が毛越寺の付属寺院の位置づけで建立したものです。

三代目藤原秀衡は奥州で産出した砂金を国内外で売り、文字通り奥州藤原氏の黄金時代を築きました。

秀衡は豊かな経済力を背景に朝廷と平家と良好な関係を築き、その一方で源義経を匿い源氏への配慮も

見せる見事な政治手腕を発揮していたとされます。

街も栄え、当時の平泉は京都に次ぐ人口を誇っていました。日本第二の都市ですよ。

因みに黄金の国ジパングという言葉の発祥は奥州藤原氏と言われています。

平泉 無量光院跡 (3)

上の画像は無量光院跡の想像図です。

当時は本尊に丈六の阿弥陀仏や三重塔を建てるなど宇治平等院鳳凰堂を模した寺院と言われています。

また藤原秀衡が先代基衡同様に京都に対する対抗心を燃やしていたと推測される特徴があります。

・平等院鳳凰堂には無い中島(池の中にある島)がある。

・宇治平等院鳳凰堂より大きい建物であった。

・庭園から夕日を見ると金鶏山に沈むようになっていて、浄土思想の世界観を見事に体現していた。

藤原秀衡のロマンがぎっしり詰まった、胸高まる史跡が無量光院跡です。

そうだ京都を真似よう。

そうだ京都を超えよう。

さあ奥州藤原氏黄金時代のランドマークたる無量光院跡はこちらです。

平泉 無量光院跡 (1)

現在の無量光院跡。残念ながらジパング感はありません。

度重なる火災で本尊は既になく、今は土塁などが僅かに残るだけです。

ですがその寂しさが秀衡のロマンそして「もののあはれ」を感じさせてくれます。

平泉 無量光院跡 (2)

無量光院跡の後ろを貨物列車が走る。浄土思想を体現したかった秀衡が見たら激怒でしょう。

最後になりましたが無量光院跡は無料です。

道路沿いの買い手のつかない更地みたいになっているので見過ごさぬようご注意ください。

この後は平泉黄金時代に政務が行われていたとされる跡地へ行きました。

世界遺産構成5資産のうち4つを回りましたが、この時点でまだ11時前。早起きは三文の得ですね。

というか殆ど寝ていませんが。


クリックすると外部サイトへ移動します。 

ご参考

奥州藤原氏について思い出してみる。

盛岡競馬場へ行くドライブの旅の寄り道先として世界遺産のまち平泉に行ってきました。

世間一般では平泉がメインで盛岡競馬場がオマケでしょうが気にしてはいけません。

さて、平泉は姫路城や富士山のように一つの史跡、山で世界遺産に指定されたわけではありません。

平泉にある 5つの文化財を足し合わせて世界遺産に認められました。

姫路城と富士山が柔道の一本勝ちなら平泉は効果を5つ取って合わせ技一本といった格好です。

世界遺産の構成5資産は中尊寺以外は初耳です。管理人が無知なだけかも知れませんが。

・中尊寺

・毛越寺

・観自在王院跡

・無量光院跡

・金鶏山

文化遺産は歴史を予習した方が面白いので、簡単(=雑)に奥州藤原氏について触れたいと思います。



初代奥州藤原氏は藤原清衡と言われています。

それまでの藤原家は、清衡の父・経清が陸奥国の豪族安倍氏の手下として働いていました。

前九年の役で安倍氏が滅ぼされ、経清は戦犯として死刑になりました。

経清の妻(=清衡氏の母)は敵方清原武則の息子・清原武貞と再婚し清衡は死を免れます。

その後清原家の養子になった清衡ですが、清原家の領土問題に巻き込まれます。

清原武貞の息子の真衡、家衡らと争う事になりますが源義家の介入等で清衡が勝ちます(後三年の役)。

その結果養子の清衡が清原家の所領を継承する事となり、その際に姓を藤原に戻します。

これが奥州藤原氏の始まりと言われています。

これまで藤原家は地元の権力者安倍氏と清原氏に頭が上がらなかったわけですが、

彼らが相次いで朝廷側に滅ぼされ藤原氏に権力が転がってきた格好です。

少し話がそれますが、信長と秀吉がいなくなって天下が転がり込んだ家康と重なります。

話を戻しますと、その後の藤原清衡は朝廷と良好な関係を築く事に努めました。

そのため戦が起きなかった奥州の地は大いに栄えました。

ここから話は二代目に移るのですが、二代目基衡は父清衡と逆に朝廷に対して強硬な姿勢を取りました。

これは当時の中央の権力者藤原頼長が荘園領主の立場にかこつけて無理難題を要求してきたため

といわれています。

平安時代は荘園制の下、農業経営の優れた地方の地主が賄賂等で国司を抱き込み

朝廷や貴族に対して強気になれた時代でした。

中尊寺は初代清衡、毛越寺と観自在王院は二代目基衡、無量光院は三代目秀衡が作ったと言われています。 

この後のエントリーで見ますが、奥州藤原氏の京都に対する憧憬と対抗心が建物デザインに表れます。

ご参考
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