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藤原基衡

世界遺産平泉を巡る 観自在王院跡

観自在王院跡とは奥州藤原氏二代目の藤原基衡の妻が建てたお寺の跡地の事をいいます。

藤原基衡は熱心な浄土思想を持つ人物で、立派な浄土庭園を持つ毛越寺を建立しました。

夫の影響を受けたのか、妻も浄土庭園の造りをした観自在王院を建てました。

平泉 観自在王院跡 (1)

場所は毛越寺の隣です。だだっ広い空き地です。

毛越寺の敷地内から見えますし、平泉のメインストリート(?)に面しているので車窓からも見えます。

 平泉 観自在王院跡 (2)

入り口付近にある看板です。

御堂に阿弥陀如来が祀ってあった事、京の風景が御堂に描かれていた事から浄土への思いと

京文化への憧憬が窺えると書かれています。

因みに、阿弥陀如来=観自在王如来らしいです。


クリックすると外部サイトへ移動します。


さて、観自在王院跡は大阿弥陀堂、小阿弥陀堂、舞鶴が池で構成される浄土庭園です。

訪問当時は観自在王院跡に関する知識はゼロだったので大阿弥陀堂と小阿弥陀堂に立ち寄りませんでした。

平泉 観自在王院跡 (5)
平泉 観自在王院跡 (6)
平泉 観自在王院跡 (9)

手入れの行き届いた小ざっぱりした空き地です。

平泉 観自在王院跡 (7)

舞鶴が池です。

浄土庭園は御堂の前に大きな園池が広がる形式で、観自在王院跡もその形式が残っています。

観光客が殆どいないのでマイペースで見る事ができます。無料の気軽さもあります。

毛越寺の隣ですからついでに立ち寄る事もできますので、巡っておきたい史跡です。

ご参考

世界遺産平泉を巡る 毛越寺

金鶏山を出て、次は毛越寺にやってまいりました。

平泉 毛越寺 (16)

毛越寺とは慈覚大師円仁が開山し藤原基衡と秀衡によって多数の伽藍が造られた寺院です。

毛越寺を語る上で欠かせないのが藤原基衡です。

藤原基衡は京都の藤原頼長の無茶な要求に正々堂々と立ち向かい奥州の利益を守った剛の者です。

当時の京都藤原氏と奥州藤原氏の関係は荘園領主とそこで働く現地管理者の関係でした。

現代でいう株主と会社の代表取締役の関係でしょうか。

藤原頼長は悪左府と言われる冷酷非道、他人に厳しく自分に甘い人物といわれています。

藤原頼長はあれこれ理由を付けて藤原基衡に対して納付する年貢を増やせと要求してきました。

基衡は何年にも及ぶ交渉の末に理不尽な要求を撥ね付け奥州の民を守ったと言われています。

また藤原基衡は京都を超える建物を造ることに執念を燃やしていた男といわれています。

平泉 毛越寺 (15)

理由については諸説あります。

一説によると、当時の京都は辺境の東北に対して偏った印象を抱いていて、

基衡はその印象を覆すために京都よりも立派な建物を建てようとしたとする説があります。

建築家坂茂氏は、古来アーキテクチャーは特権階級の為のもので、富や権力と言った目に見えないものを

可視化するための要具であったと言っています。

毛越寺は東北の富と意地を示すシンボルにしたかったのではないでしょうか。

話を毛越寺に戻します。毛越寺は平安時代に造られた浄土庭園として有名です。

浄土庭園の特徴は本堂(阿弥陀堂)の前に大きな池を配置している点にあります。

平泉 毛越寺 (17)

毛越寺には見事な池があり、平安時代の浄土思想を感じられる庭園が広がっています。

特徴的なのは、池を囲むように伽藍跡がある事です。

伽藍(ガラン)は僧侶が集合し修行する場所です。専門的な話はこちらの外部サイトにてご確認ください。


平泉 毛越寺 (0)

さて平成の世の毛越寺は表に舗装道路が通り100台以上収容できる駐車場を備えた

平泉の町おこしの要具として立派に機能しています。

毛越寺は中尊寺に比べると観光スポットとして地味ですが、

平安文化や奥州藤原氏といった平安史が良く分かる場所です。

世界遺産平泉の中で一番楽しい場所じゃないでしょうか。

門をくぐると本堂が見えてきます。

平泉 毛越寺 (19)

本堂には薬師如来、脇士日光、月光両菩薩が安置されています。

平泉 毛越寺 (20)

煙越しに本堂を臨む。

観光スポットの一般的な流れは、脇役→本堂、の順ですが。毛越寺の順路は本堂→庭園になっています。

平泉 毛越寺 (18)

南大門跡が庭園のスタート地点になります。

平泉 毛越寺 (21)

浄土庭園の特徴である本堂の前の広い池。池の真ん中に島を作るのも浄土庭園の特徴です。

平泉 毛越寺 (1)

池の周りには木々が植えられているので、角度によって違う景色が楽しめます。

毛越寺は池の周辺に多数の伽藍跡が発見されていて、これからその跡地の写真を一気にご紹介します。

 平泉 毛越寺 (2)
平泉 毛越寺 (3)
平泉 毛越寺 (4)
平泉 毛越寺 (5)
平泉 毛越寺 (6)
平泉 毛越寺 (11)

伽藍跡はこの辺にして、次は平安時代当時のものと言われる人口の川です。

遣水(やりみず)といいます。

平泉 毛越寺 (7)
平泉 毛越寺 (8)

小さくてかわいらしい川ですが趣があります。眺めているだけで涼しくなってきます。

和歌を詠みたくなる雅な風情を漂わせています。

平泉 毛越寺 (9)

おまけ、といっても毛越寺の敷地内にある立派な史跡ですが地蔵菩薩です。

どこかユーモラスな表情がいいですね。平安時代のゆるきゃらに相当するかも。

平泉 毛越寺 (10)

地蔵菩薩のボッサン。

平泉 毛越寺 (13)

毛越寺観光順路の終わりには道路越しに観自在王院跡が見えます。

観自在王院跡は藤原基衡の妻が建てたといわれています。

次回のエントリーでご紹介いたします。 

追記:毛越寺は有料。観自在王院跡は無料。

ご参考

  中尊寺・毛越寺 JTBキャンブックス

世界遺産平泉を巡る  金鶏山

前回のエントリーで世界遺産平泉の礎を築いた奥州藤原氏についてご紹介しました。文字ばっかりで読みにくかったと思います。今回は写真たっぷりでお届けいたします。

今回ご紹介するのは金鶏山です。きんけいざんと読みます。

平泉 金鶏山 (1)

金鶏山は世界遺産を構成する5資産のうちのひとつで、標高約200mの小高い丘のような山です。

名前の由来は奥州藤原氏二代目の藤原基衡が金で作った雌雄の鶏を山中に埋めたとする説が通説です。

平泉 金鶏山 (2)
平泉 金鶏山 (3)
平泉 金鶏山 (4)
 
あちこちに金鶏山の名前の由来を説明する看板があり、どの看板も似たような事を書いていました。 

また金鶏山に経塚が確認されています。

経塚とはお経を埋めて土を盛った場所をいい、その目的は時代により異なります。



藤原基衡の時代においては浄土思想の中で個人の祈願成就を目的として行われていたようです。

浄土思想とは阿弥陀如来を信仰し、西方極楽浄土に往生する事を目指す思想をいいます。

基衡は何を祈願したのでしょうか。自分が極楽浄土へ行ける事でしょうか。

のちに紹介する無量光院跡は浄土思想を具体的な形として表現した建造物で、

そのカギを握るのが金鶏山です。つづきは無量光院跡のところで。

話は変わり、金鶏山には様々なものが祀られています。

平泉 金鶏山 (5)

平泉 金鶏山 (6)

金鶏山の入り口に千手堂と呼ばれるお堂があり、そこには看板に書いてあるように

一、 御本尊千手観音


※画像をクリックすると外部サイトへ移動します。

一、 弁財天尊(十六童子)


※画像をクリックすると外部サイトへ移動します。

一、 藤原三将軍の御位牌

一、 藤原秀衡公の木像

一、 愛染明王の像

一、 不動明王の像


※画像をクリックすると外部サイトへ移動します。

が安置されています。※写真に写っている物自体が安置されているわけではありません。

平泉 金鶏山 (7)

ご覧のようなコンパクトサイズのお堂に沢山のものが安置されています。

平泉 金鶏山 (8)

平泉以外にも岩手県内で立ち寄りたい所が色々ある事、昨日から殆ど寝ていない事を理由に

この日は金鶏山に登っていませんが、平安時代の領主が領民統治の為に何を願っていたのか等

平安史に関する知識が深まりそうなので、平泉をメイン訪問地とされる方には登山をお勧めします。

平泉 金鶏山 (10)

上の道しるべにあるように入ってすぐの所に義経関連のお墓があります。

平泉 金鶏山 (11)

源義経公妻子之墓 。

平泉 金鶏山 (12)

元々別の場所にあったのですが、管理しやすいように移動させたとの事です。

平泉 金鶏山 (9)

義経公は光となったとかモンゴルへ行ったとか不思議な言い伝えが残っています。

 ということで(?)ここには母と子のみ祀られています。

平泉 金鶏山 (13)

金鶏山登山道はまだ続きますが、ここで引き返し、次の目的地へ向かいました。

ご参考

 仏像ワールド


奥州藤原氏について思い出してみる。

盛岡競馬場へ行くドライブの旅の寄り道先として世界遺産のまち平泉に行ってきました。

世間一般では平泉がメインで盛岡競馬場がオマケでしょうが気にしてはいけません。

さて、平泉は姫路城や富士山のように一つの史跡、山で世界遺産に指定されたわけではありません。

平泉にある 5つの文化財を足し合わせて世界遺産に認められました。

姫路城と富士山が柔道の一本勝ちなら平泉は効果を5つ取って合わせ技一本といった格好です。

世界遺産の構成5資産は中尊寺以外は初耳です。管理人が無知なだけかも知れませんが。

・中尊寺

・毛越寺

・観自在王院跡

・無量光院跡

・金鶏山

文化遺産は歴史を予習した方が面白いので、簡単(=雑)に奥州藤原氏について触れたいと思います。



初代奥州藤原氏は藤原清衡と言われています。

それまでの藤原家は、清衡の父・経清が陸奥国の豪族安倍氏の手下として働いていました。

前九年の役で安倍氏が滅ぼされ、経清は戦犯として死刑になりました。

経清の妻(=清衡氏の母)は敵方清原武則の息子・清原武貞と再婚し清衡は死を免れます。

その後清原家の養子になった清衡ですが、清原家の領土問題に巻き込まれます。

清原武貞の息子の真衡、家衡らと争う事になりますが源義家の介入等で清衡が勝ちます(後三年の役)。

その結果養子の清衡が清原家の所領を継承する事となり、その際に姓を藤原に戻します。

これが奥州藤原氏の始まりと言われています。

これまで藤原家は地元の権力者安倍氏と清原氏に頭が上がらなかったわけですが、

彼らが相次いで朝廷側に滅ぼされ藤原氏に権力が転がってきた格好です。

少し話がそれますが、信長と秀吉がいなくなって天下が転がり込んだ家康と重なります。

話を戻しますと、その後の藤原清衡は朝廷と良好な関係を築く事に努めました。

そのため戦が起きなかった奥州の地は大いに栄えました。

ここから話は二代目に移るのですが、二代目基衡は父清衡と逆に朝廷に対して強硬な姿勢を取りました。

これは当時の中央の権力者藤原頼長が荘園領主の立場にかこつけて無理難題を要求してきたため

といわれています。

平安時代は荘園制の下、農業経営の優れた地方の地主が賄賂等で国司を抱き込み

朝廷や貴族に対して強気になれた時代でした。

中尊寺は初代清衡、毛越寺と観自在王院は二代目基衡、無量光院は三代目秀衡が作ったと言われています。 

この後のエントリーで見ますが、奥州藤原氏の京都に対する憧憬と対抗心が建物デザインに表れます。

ご参考