岩手県
奥州藤原氏ゆかりの寺を巡り終え、向かったのは達谷窟毘沙門堂です。
中尊寺から車で10km足らず移動します。車のエアコンをガンガンに効かせて必死に体力回復を。
達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)は蝦夷征伐の最高司令官であり、
初代征夷大将軍と言われる坂上田村麻呂が蝦夷征伐の拠点を構えた地といわれています。
前九年後三年の役の折には源頼義、義家が戦勝祈願のため寺領を寄進したと伝えられています。
さらに時代は下り、源頼朝も奥州征伐の帰り道に立ち寄った記録も残されています。
源氏と坂上田村麻呂は何の関係もありません。
ですが蝦夷征伐をした坂上田村麻呂の武運にあやかりたかったのでしょうか。
これまで緑深い寺を巡っていたので鳥居の朱色がやたらとげとげしく感じました。
達谷窟毘沙門堂には毘沙門天、弁天、不動明王、薬師如来、いろんな仏様がいらっしゃいます。
ところで、弁天は神社で祀られている神様だから毘沙門天らと一緒にいる事に疑問を感じませんか?
実は弁天が神社中心に祀られるようになったのは明治以降の話で、昔は寺でも弁天は祀られていたのです。
明治維新の神仏分離により形式的に分離されていただけだったんですね。
赤鳥居をくぐると左に弁天堂、右に毘沙門堂が見えます。
順路は先に毘沙門堂を巡るようになっていますがエントリーの便宜上先に弁天堂をご紹介します。
紹介といっても写真を貼っているだけですが・・・。赤い弁天堂です。
とにかく朱!朱!朱!
そういえば高校野球の智辯学園、智辯和歌山のユニフォームは朱色ですよね。
ここも朱が基調ですから弁天様のトレードカラーは朱色なのかなと調べましたが関係ないようです。
弁天様は弁財天という神なので金運商売にご利益があるそうです。
※クリックすると外部サイトへ移動します。
場所は変わり不動堂です。こちらのお不動さんは眼病に良いそうです。
平泉の寺社仏閣は茅葺き屋根が多いです。
次いで金堂(こんどう)です。薬師如来が祀ってあります。諸々の願いがかなうそうです。
コンパクトサイズですが立派な建物です。
後回しにした毘沙門堂です。毘沙門天は軍神です。
現代ではそこから転じて勝負事に御利益があると言われています。
罰が当たる可能性は低くありませんが、勝負事にいいならギャンブルにもご利益があるかもしれません。
※クリックすると外部サイトへ移動します。
少々強引ですが本ブログタイトルと関連付けてみました。
毘沙門堂の内部は撮影禁止です。2階入り口付近から下を覗いたビューで1枚。
手前に舞台のような場所があります。 ここは京都の清水寺を模したそうです。あの清水の舞台です。
坂上田村麻呂と清水寺にはエピソードがあり、細かい話はここでは省略しますが、
奥州征伐の成功と清水寺に関係を見出し、この堂に清水寺を再現したと言われています。
さて、この毘沙門堂を降りると次は日本のアンコールワット(とは誰も言っていませんが)の登場です。
ご参考
中尊寺から車で10km足らず移動します。車のエアコンをガンガンに効かせて必死に体力回復を。
達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)は蝦夷征伐の最高司令官であり、
初代征夷大将軍と言われる坂上田村麻呂が蝦夷征伐の拠点を構えた地といわれています。
前九年後三年の役の折には源頼義、義家が戦勝祈願のため寺領を寄進したと伝えられています。
さらに時代は下り、源頼朝も奥州征伐の帰り道に立ち寄った記録も残されています。
源氏と坂上田村麻呂は何の関係もありません。
ですが蝦夷征伐をした坂上田村麻呂の武運にあやかりたかったのでしょうか。
これまで緑深い寺を巡っていたので鳥居の朱色がやたらとげとげしく感じました。
達谷窟毘沙門堂には毘沙門天、弁天、不動明王、薬師如来、いろんな仏様がいらっしゃいます。
ところで、弁天は神社で祀られている神様だから毘沙門天らと一緒にいる事に疑問を感じませんか?
実は弁天が神社中心に祀られるようになったのは明治以降の話で、昔は寺でも弁天は祀られていたのです。
明治維新の神仏分離により形式的に分離されていただけだったんですね。
赤鳥居をくぐると左に弁天堂、右に毘沙門堂が見えます。
順路は先に毘沙門堂を巡るようになっていますがエントリーの便宜上先に弁天堂をご紹介します。
紹介といっても写真を貼っているだけですが・・・。赤い弁天堂です。
とにかく朱!朱!朱!
そういえば高校野球の智辯学園、智辯和歌山のユニフォームは朱色ですよね。
ここも朱が基調ですから弁天様のトレードカラーは朱色なのかなと調べましたが関係ないようです。
弁天様は弁財天という神なので金運商売にご利益があるそうです。
※クリックすると外部サイトへ移動します。
場所は変わり不動堂です。こちらのお不動さんは眼病に良いそうです。
平泉の寺社仏閣は茅葺き屋根が多いです。
次いで金堂(こんどう)です。薬師如来が祀ってあります。諸々の願いがかなうそうです。
コンパクトサイズですが立派な建物です。
後回しにした毘沙門堂です。毘沙門天は軍神です。
現代ではそこから転じて勝負事に御利益があると言われています。
罰が当たる可能性は低くありませんが、勝負事にいいならギャンブルにもご利益があるかもしれません。
※クリックすると外部サイトへ移動します。
少々強引ですが本ブログタイトルと関連付けてみました。
毘沙門堂の内部は撮影禁止です。2階入り口付近から下を覗いたビューで1枚。
手前に舞台のような場所があります。 ここは京都の清水寺を模したそうです。あの清水の舞台です。
坂上田村麻呂と清水寺にはエピソードがあり、細かい話はここでは省略しますが、
奥州征伐の成功と清水寺に関係を見出し、この堂に清水寺を再現したと言われています。
さて、この毘沙門堂を降りると次は日本のアンコールワット(とは誰も言っていませんが)の登場です。
ご参考
今回は世界遺産平泉のメイン史跡である中尊寺をご紹介します。
中尊寺は奥州藤原氏の初代藤原清衡が前九年、後三年の役で多くの東北の民が亡くなったので、
その魂を極楽浄土へ導くとともに戦乱の無い世の中を築くことを誓った寺社です。
時の鎮守府将軍の源頼義、源義家は東北の紛争を武力を以て鎮める権限を持っていました。
源氏がその時どれだけ東北の民を殺したのか分かりませんが、
藤原清衡は非戦の人になり中央の権力者との軋轢を避ける事に努めました。
お盆休みということもあり、入り口は活気づいていました。
ここからひたすら坂道の連続です。
これまで繰り返し申し上げているように、昨日から殆ど寝ずにここまで来ています。
真夏。睡眠不足。急坂。
体力を奪う要素が3つも揃い、悪い汗がダクダク出るわ意識は朦朧だわといった状態でした。
ですから辛かった事以外は覚えていません。
中尊寺のマップです。以下この地図を参考に写真をご覧になると分かり易いと思います。
初めは弁慶堂です。弁慶は清衡の時代の人ではありませんが、こちらで祀られています。
武蔵坊弁慶は五条大橋で義経に出会って以降、最期まで義経を守り続けた忠義の男でした。
弁慶のような人材は現代でも重宝されると思うのですが、そういう人は中々見かけません。
ニッスイの弁慶ソーセージを食べて君も弁慶になろう(大嘘)。フジカラーって懐かしい。
中尊寺の本堂。金色堂はここから更に250m先です。
本堂を出ると峯薬師堂が見えます。この辺りの景色なんかは嵯峨野や東山の景色に似てませんか?
平泉はいい意味で日本の近代化の流れに乗らなかったので、
他の小京都と呼ばれる観光地よりよほど京都的な風情が残っています。
写真を眺めていると虫の鳴き声が聞こえてきそうです。
不動堂。不動明王のいる場所です。
平泉の史跡は結構あちこちで不動明王がまつられています。
鐘楼。銘に中尊寺の創建や建武の火災に関する史料がのこっている日本史研究上重要な史跡。
撞座の摩耗が甚だしく鐘を撞かれる事はもうありません。
茅葺き屋根が平安時代を連想させてくれます。
いよいよ金色堂もとい、やっとこさ金色堂。
ここまで来るまでに歴史的建造物を腹いっぱい見てきたので、正直どうでもよくなってました。
==中尊寺金色堂は有料でかつ写真撮影が禁じられています。==
金色堂内部には当時造られた仏像が展示されていました。
それを見て思ったのは、自分には骨董品を集める嗜好は無いという事。
建物には惹かれても偶像には感じるものはありませんでした。
とっとと外に出て芭蕉王翁句碑を発見。
五月雨の 降のこしてや 光堂
周りの建物は雨風で朽ちているが、金色堂だけは昔のまま輝いている。
金色堂にだけは五月雨も遠慮して降らなかったのではないか。
山林と同化して趣ある寺にキラキラ輝く金色堂とやら。 どんなものだったのでしょうね。
金色堂の更に奥にオマケのように能舞台、西物見というものがあります。
能舞台。
以上中尊寺でした。疲れたーっ!!
オマケ。 中尊寺の金色堂へ向かう途中に鉄道の撮影スポットがあります。
東北本線です。残念ながら列車は通りませんでした。
もうひとつオマケ。中尊寺には公営駐車場と民営の土産物屋の駐車場があります。
土産物屋の駐車場の誘導員がヤリ手で、つい土産物屋の駐車場に入ってしまうような
名人芸的な誘導を披露しています。
ご参考
中尊寺は奥州藤原氏の初代藤原清衡が前九年、後三年の役で多くの東北の民が亡くなったので、
その魂を極楽浄土へ導くとともに戦乱の無い世の中を築くことを誓った寺社です。
時の鎮守府将軍の源頼義、源義家は東北の紛争を武力を以て鎮める権限を持っていました。
源氏がその時どれだけ東北の民を殺したのか分かりませんが、
藤原清衡は非戦の人になり中央の権力者との軋轢を避ける事に努めました。
お盆休みということもあり、入り口は活気づいていました。
ここからひたすら坂道の連続です。
これまで繰り返し申し上げているように、昨日から殆ど寝ずにここまで来ています。
真夏。睡眠不足。急坂。
体力を奪う要素が3つも揃い、悪い汗がダクダク出るわ意識は朦朧だわといった状態でした。
ですから辛かった事以外は覚えていません。
中尊寺のマップです。以下この地図を参考に写真をご覧になると分かり易いと思います。
初めは弁慶堂です。弁慶は清衡の時代の人ではありませんが、こちらで祀られています。
武蔵坊弁慶は五条大橋で義経に出会って以降、最期まで義経を守り続けた忠義の男でした。
弁慶のような人材は現代でも重宝されると思うのですが、そういう人は中々見かけません。
中尊寺の本堂。金色堂はここから更に250m先です。
本堂を出ると峯薬師堂が見えます。この辺りの景色なんかは嵯峨野や東山の景色に似てませんか?
平泉はいい意味で日本の近代化の流れに乗らなかったので、
他の小京都と呼ばれる観光地よりよほど京都的な風情が残っています。
写真を眺めていると虫の鳴き声が聞こえてきそうです。
不動堂。不動明王のいる場所です。
平泉の史跡は結構あちこちで不動明王がまつられています。
鐘楼。銘に中尊寺の創建や建武の火災に関する史料がのこっている日本史研究上重要な史跡。
撞座の摩耗が甚だしく鐘を撞かれる事はもうありません。
茅葺き屋根が平安時代を連想させてくれます。
いよいよ金色堂もとい、やっとこさ金色堂。
ここまで来るまでに歴史的建造物を腹いっぱい見てきたので、正直どうでもよくなってました。
==中尊寺金色堂は有料でかつ写真撮影が禁じられています。==
金色堂内部には当時造られた仏像が展示されていました。
それを見て思ったのは、自分には骨董品を集める嗜好は無いという事。
建物には惹かれても偶像には感じるものはありませんでした。
とっとと外に出て芭蕉王翁句碑を発見。
五月雨の 降のこしてや 光堂
周りの建物は雨風で朽ちているが、金色堂だけは昔のまま輝いている。
金色堂にだけは五月雨も遠慮して降らなかったのではないか。
山林と同化して趣ある寺にキラキラ輝く金色堂とやら。 どんなものだったのでしょうね。
金色堂の更に奥にオマケのように能舞台、西物見というものがあります。
能舞台。
以上中尊寺でした。疲れたーっ!!
オマケ。 中尊寺の金色堂へ向かう途中に鉄道の撮影スポットがあります。
東北本線です。残念ながら列車は通りませんでした。
もうひとつオマケ。中尊寺には公営駐車場と民営の土産物屋の駐車場があります。
土産物屋の駐車場の誘導員がヤリ手で、つい土産物屋の駐車場に入ってしまうような
名人芸的な誘導を披露しています。
ご参考
高館義経堂は世界遺産を構成していませんが奥州藤原氏と関連のある史跡なので寄ってきました。
看板は見つけやすいです。看板から少し行った所に専用駐車場があります。
結構な急坂です。
有料ゾーンと無料ゾーンがあり、この日は無料ゾーンのみ見てきました。有料も見ときゃ良かったなぁ。
高館義経堂は坂の後に急こう配の階段が待っています。
階段を上りきると分かれ道に。まずは義経堂からご紹介します。
高館義経堂は奥州藤原氏の居館の一つで、平泉に落ち延びてきた源義経を匿った場所です。
源義経は壇ノ浦で平家を打ち滅ぼした功労者でした。
しかし頼朝に許可なく検非違使に就いたり、平家との戦で指示、権限を無視した事などを理由に
頼朝からは罪人扱いを受けます。
加えて頼朝が義経を討つ行動を取ったため義経は京都を去らざるを得なくなり、
若い頃、鞍馬寺から逃げ出した際に匿ってもらった藤原秀衡のもとへ落ち延びました。
画像は義経が暮らしていた館。
秀衡は義経の為に頼朝との戦に備えていたのですが急死してしまいます。
秀衡の後を継いだのは四代目藤原泰衡でした。
泰衡は、義経を護るようにとの秀衡の遺言があったにも関わらず、
源頼朝からの度重なる脅しと嫌がらせに屈し、義経を裏切ります。
高館堂にいた義経を襲撃し、追い詰められた義経は高館義経堂にて自害したと言われています。
義経そして父秀衡の遺言を裏切った泰衡ですが、頼朝の意向に沿った行動を取りましたが、
その後頼朝の東北征伐により滅ぼされてしまいます。
どのみち頼朝に攻め込まれるなら義経を大将にして頼朝と戦をしても良かったのではないかというのが
一般的な評価です。
芭蕉の句碑。
なつくさや つはものどもが ゆめのあと
かつて栄華を誇った奥州藤原氏。打倒平家を果たし理想の国家設立を夢見た源義経。
彼ら英雄たちが暮らしたかつての日本第二の都市も、今目の前には夏草が生い茂っているだけである。
彼らの栄華も歴史全体で見れば一炊の夢の如し。
夏草を見ているともののあはれを感じる。
ポップに解釈するとこのような感じでしょうか。
国破れて山河あり。城春にして草青みたりと。
笠内敷きて。時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。
「切ないね。」では伝えきれない様々な思いを簡潔にまとめた秀逸の詩です。
看板は見つけやすいです。看板から少し行った所に専用駐車場があります。
結構な急坂です。
有料ゾーンと無料ゾーンがあり、この日は無料ゾーンのみ見てきました。有料も見ときゃ良かったなぁ。
高館義経堂は坂の後に急こう配の階段が待っています。
階段を上りきると分かれ道に。まずは義経堂からご紹介します。
高館義経堂は奥州藤原氏の居館の一つで、平泉に落ち延びてきた源義経を匿った場所です。
源義経は壇ノ浦で平家を打ち滅ぼした功労者でした。
しかし頼朝に許可なく検非違使に就いたり、平家との戦で指示、権限を無視した事などを理由に
頼朝からは罪人扱いを受けます。
加えて頼朝が義経を討つ行動を取ったため義経は京都を去らざるを得なくなり、
若い頃、鞍馬寺から逃げ出した際に匿ってもらった藤原秀衡のもとへ落ち延びました。
画像は義経が暮らしていた館。
秀衡は義経の為に頼朝との戦に備えていたのですが急死してしまいます。
秀衡の後を継いだのは四代目藤原泰衡でした。
泰衡は、義経を護るようにとの秀衡の遺言があったにも関わらず、
源頼朝からの度重なる脅しと嫌がらせに屈し、義経を裏切ります。
高館堂にいた義経を襲撃し、追い詰められた義経は高館義経堂にて自害したと言われています。
義経そして父秀衡の遺言を裏切った泰衡ですが、頼朝の意向に沿った行動を取りましたが、
その後頼朝の東北征伐により滅ぼされてしまいます。
どのみち頼朝に攻め込まれるなら義経を大将にして頼朝と戦をしても良かったのではないかというのが
一般的な評価です。
芭蕉の句碑。
なつくさや つはものどもが ゆめのあと
かつて栄華を誇った奥州藤原氏。打倒平家を果たし理想の国家設立を夢見た源義経。
彼ら英雄たちが暮らしたかつての日本第二の都市も、今目の前には夏草が生い茂っているだけである。
彼らの栄華も歴史全体で見れば一炊の夢の如し。
夏草を見ているともののあはれを感じる。
ポップに解釈するとこのような感じでしょうか。
国破れて山河あり。城春にして草青みたりと。
笠内敷きて。時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。
「切ないね。」では伝えきれない様々な思いを簡潔にまとめた秀逸の詩です。
柳之御所遺跡は奥州藤原氏の政務の場とされる場所です。
多数の遺構と京都そして海外と交流があったことを示す土器、陶磁器が発見されています。
世界遺産を構成する5資産に入っていませんが、奥州藤原氏、平泉文化を研究する上で重要な遺跡です。
近鉄奈良線の西ノ京と西大寺の間で見られる平城京遺跡群に似た敷地が広がっています。
多数の遺構と京都そして海外と交流があったことを示す土器、陶磁器が発見されています。
世界遺産を構成する5資産に入っていませんが、奥州藤原氏、平泉文化を研究する上で重要な遺跡です。
近鉄奈良線の西ノ京と西大寺の間で見られる平城京遺跡群に似た敷地が広がっています。
気になるのは豊かな経済力を持った平泉がどれくらいの規模の貿易を行っていたかという点です。
奥州藤原氏は、かなり広範囲に渡って貿易を展開していたようでした。
奥州藤原氏は、かなり広範囲に渡って貿易を展開していたようでした。
柳之御所跡から中国産の陶磁器が大量に出土している他、後に紹介する中尊寺金色堂には
宋版一切経が収蔵されていることから宋と貿易をしていたことは明らかです。
他にも金色堂七堂螺鈿の巻柱には、屋久島でしか採れない貝殻が使われ、
須弥壇にはアフリカ象の象牙が使用されていました。
この象牙は奥州藤原氏がアラブ系の人と交易していたとする説と、
平泉から船を出してアフリカから仕入れてきたとする説がありますが、
いずれにしても高い交易力があったと言えます。
更に平泉には、当時皇族でもめったに手に入らない犀の角が出土されています。
平泉のもっとも輝いていた時代。
この強大な国力が源頼朝に警戒され、後に頼朝によって滅ぼされる事になるとは
世の無常という他ありません。
ご参考
宋版一切経が収蔵されていることから宋と貿易をしていたことは明らかです。
他にも金色堂七堂螺鈿の巻柱には、屋久島でしか採れない貝殻が使われ、
須弥壇にはアフリカ象の象牙が使用されていました。
この象牙は奥州藤原氏がアラブ系の人と交易していたとする説と、
平泉から船を出してアフリカから仕入れてきたとする説がありますが、
いずれにしても高い交易力があったと言えます。
更に平泉には、当時皇族でもめったに手に入らない犀の角が出土されています。
平泉のもっとも輝いていた時代。
この強大な国力が源頼朝に警戒され、後に頼朝によって滅ぼされる事になるとは
世の無常という他ありません。
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